奈良・平安時代の留学生 阿倍仲麻呂

遣唐使は西暦630年から西暦894年までの264年間に渡って20回、日本から唐に送られた派遣使節団である。こうした定期的な交流は、政治的な意味合いと同時に、唐からの文化吸収を行うという点でも大きく貢献したとされている。遣唐使には国の使者としての大使だけでなく、留学生も含まれ、多くの優秀な人材が海外で学び、新しい文化や知識を日本にもたらした。今後、何回かに渡りそうした留学生にスポットを当てるとともに、留学の意義についても 考察してみたい。初回は、阿倍仲麻呂を取り上げる。

 

阿倍仲麻呂

0阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は20歳で第八次遣唐使の留学生として入唐、その後、超難関の科挙(官吏試験)に合格、唐朝の諸官を歴任した。当時の皇帝である玄宗にも一目置かれ、唐の大臣職という重責も担った人物である。

阿倍仲麻呂の優秀さは、長安で学んでいた時から顕著であった。当時、長安には大学高等機関に相当する「国子学」「太学」「四門学」の3校があり、阿倍仲麻呂は「太学」に入学する。「太学」のカリキュラムである九経(易経・書経・詩経・周礼・儀礼・礼記・春秋左氏伝・春秋公羊伝・春秋穀梁伝)を終了し、科挙(官吏登用試験)の受験資格を得ることが出来た。高等文官試験は、進士と明経という2つの科挙試験があったが、阿倍仲麻呂は最も難しいとされた進士科を受験し見事に合格している。

Song_Imperial_Examinationこの科挙の競争率は熾烈を極めており、阿倍仲麻呂の合格した最難関の進士科は、最盛期には約3000倍に達することもあった。明経科が受験者二千人で合格率10~20%であったのに対し、進士科は受験者千人で合格者が1~2%しかいなかったという事からも、進士科がいかに超難関であったかが分かるだろう。「明経科は30歳でも年寄り、進士科は50歳でも若い方」と言われていた程、進士科は非常に難しい試験で何度挑戦しても合格できなかった者が多かった。受験者の大部分は一生をかけても合格できず、経済的な理由などにより受験を断念する者も沢山いたようである。そのため進士科の合格者は格別に尊重されていた。

進士科合格者は唐代では毎年、30名ほどであったとされているので、留学生で合格した、阿倍仲麻呂はスバ抜けて優秀であった訳である。しかも、阿倍仲麻呂は721年に科挙の後に左春坊司経局校書という役職についているので、24、25歳ぐらいで合格したと考えられる。

それから32年の年月が過ぎ、753年、阿倍仲麻呂は皇室の蔵書を管理し運営する長官職である「秘書監」という大臣位職に任命されることになる。これは現代では、いわゆる国立図書館長という地位がニュアンス的に近いよう思われる。

玄宗皇帝の阿倍仲麻呂への信任は厚く、第12回の遣唐使が唐を訪問した際には、日本の使者を、阿倍仲麻呂が、高官や貴族でさえ入室を許されない皇室文庫や、神聖な三教殿への案内するよう任された。こうした日本からの使者に対する異例の厚遇も、阿倍仲麻呂の働きと、玄宗の彼に対する信頼からもたらされたのである。阿倍仲麻呂が日本への帰国を願っても、玄宗皇帝が許可しなかったのは、信任の厚さがゆえに、阿倍仲麻呂を長安に留めておきたかったからに他ならない。こうして最終的に阿倍仲麻呂は、宰相クラスの高位高官にまで登りつめるのである。

官僚としての立場について述べてきたが、阿倍仲麻呂は単に役人として仕えた人物だったのではない。李白、杜甫、王維といった詩仙たちとの交友も知られている。彼は単に学問に秀でていただけでなく、文化的な才能においても認められていた人物だったのである。しかも、それは中国きっての綺羅星のような一流詩人たちからであり、その才能は推して知るべしである。

阿倍仲麻呂が35年ぶりに 日本への帰国を許可された際には、王維をはじめとする詩人仲間が酒宴をもうけ、彼に詩を送った。当時は詩酒の宴席で、作詩したものに序文をつけて編集し、 旅立つ友に贈るのが習わしであった。王維は546文字からなる序文をしたため、日本に帰国する阿倍仲麻呂ために以下のような詩を詠んだのである。王維と 阿倍仲麻呂の親交の深さの証として、以下の詩を引用したい。(晁とは阿倍仲麻呂の中国名)

送祕書晁監還日本國  秘書晁監の日本国に還るを送る
積水不可極         積水 極む可からず
安知滄海東         安んぞ 滄海の東を知らんや
九州何處遠         九州 何れの處か遠き
萬里若乘空         万里 空に乗ずるが若し
向國惟看日         国に向かって惟(た)だ日を看(み)
歸帆但信風         帰帆は但(た)だ風に信(まか)すのみ
鰲身映天黑         鰲身(ごうしん)は天に映じて黒く
魚眼射波紅         魚眼は波を射て紅なり
鄕樹扶桑外         鄕樹は扶桑の外
主人孤島中         主人は孤島の中
別離方異域         別離 方(まさ)に域を異にす
音信若爲通         音信 若爲(いかん)ぞ 通ぜんや

現代語訳

大海原の水はどこまで続くのか、見極めようが無い。
その東の果てがどうなっているのか、どうして知れるだろう。
わが国の外にあるという九つの世界のうち、
最も遠い世界、それが君の故郷、日本だ。
万里もの道のりは、さながら空を旅してるようなものだろう。
ただ太陽の運行と風向きに任せて進んでいくほかはないだろう。
伝説にある大海亀は黒々と天にその姿を映し、巨大魚の目の光は真っ赤で、波を貫いくことだろう。
君の故郷日本は、太陽の昇る所に生えているという神木(扶桑)のはるか外にあり、その孤島こそが、君の故郷なのだ。
私たちは、まったく離れた世界に別たれてしまうのだ。
もう連絡の取りようも無いのだろうか。

ちなみに、この酒宴の席で、阿倍仲麻呂は望郷の念をこめて、有名なあの歌を日本語で詠んだとされている。

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも (古今集)

35年の間、唐に生き、日本で生きた20年間を遥かに超えた阿倍仲麻呂は、故郷に対する思いを歌で見事に表現している。三笠の山とは、春日神社の奥に広がる御蓋(みかさ)山をさすであろうと解されている。遠い異郷にあって月を見て故郷をしのぶと同時に、日本に帰国して見る月への期待も感じていたのかもしれない。また中国語でなく、日本語でこの歌を詠んだのは、祖国の言葉でなければ表現できないニュアンスがあり、それが阿倍仲麻呂をして、日本語で歌を詠ませたのだろうとも推測される。

私には、子供のころから英国に住んでいて、今は英国の大学で研究職についている友人がいる。彼女には弟がおり、その弟も英国に住んでいるので二人の通常の会話は英語で行うそうなのだが、祖母の事とか、日本のことを話すときには微妙なニュアンスがあるのか、どうしても日本語で話すと言っていた。阿倍仲麻呂が故郷を想い詠んだその心には、そのような思いがあったのではないだろうか。

753年、第12回目の遣唐使の帰国に合わせ、阿倍仲麻呂はついに帰国のチャンスを得た。しかし、その航海の途中に嵐に会い難破。唐南方の驩州(現在のベトナム北部)に漂着することになる。そこでさらに土人に襲われて船員の多くが殺害される。しかし、阿倍仲麻呂は何とか免がれ、再び長安にたどり着いたのである。

難破の知らせが届き、阿倍仲麻呂は死亡したと思われていた。彼の死亡の誤報は、友人の李白の耳にも入るところとなり、友人の死を悼んだ李白は、阿倍仲麻呂のために以下のような阿倍仲麻呂を悼む詩を詠んでいる。(晁衡とは阿倍仲麻呂の中国名)

哭晁卿衡        晁卿衡を哭す
日本晁卿辞帝都    日本の晁卿 帝都を辞す
征帆一片繞蓬壷    征帆 一片 蓬壷を繞る
明月不帰沈碧海    明月帰らず 碧海に沈む
白雲愁色満蒼梧    白雲 愁色 蒼梧に満つ

【現代語訳】

日本の友人、晁衡は帝都長安を出発した。
小さな舟に乗り込み、日本へ向かったのだ。
しかし晁衡は、
明月のように高潔なあの晁衡は、
青々とした海の底に沈んでしまった!
愁いをたたえた白い雲が、
蒼梧山に立ち込めている。

詩仙の李白が、阿倍仲麻呂の死を嘆き、詩を詠んでいる。その交友関係、親交の広さは凄いものがある。例えは良くないが、アメリカでオバマ大統領の補佐官をしながら、レディ・ガガとも親友というような立場に、阿倍仲麻呂はいたのではないだろうか。
その後、阿倍仲麻呂は長安に戻ったが、結局、再び日本に帰国することは出来ず、73歳でその生涯を閉じた。

 

我々の中に息づく阿倍仲麻呂の魂

阿倍仲麻呂は優秀な官僚であり、それだけでなく一流の文化人であった。そしてグローバルに活躍する、マルチリンガルな人でもあった。近年、海外志向が重要視されているが、我々日本人には先駆者がおり、そうした人物がどのように海外の文化に適応し、そこで受け入れらていたのかを振り返ってみると、現代における我々のグローバル化への立ち位置も見えてくるのではないだろうか。

最後に、中国にある記念碑に刻まれた、阿倍仲麻呂の詠んだ、あの名句を翻訳した五言絶句を引用したい。

翹首望東天     首を翹げて東天を望めば
神馳奈良邊     神(こころ)は馳す 奈良の辺
三笠山頂上     三笠山頂の上
思又皎月圓     思ふ 又た皎月の円(まどか)なるを

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

思わず口から出たのであろう大和の言葉。そのニュアンスは日本語でなければ表現しえなかったものだったに違いない。そして海外を知ることは、より自分の内面、ルーツに向き合うこと、つまり日本を知ることでもあると私は思う。それは阿倍仲麻呂が、なぜあの唐の詩人たちとの酒宴であるのに、日本語で句を残したかという事に答えがあるようにも思えてならない。彼の肉体は結局日本に帰ってこれなかったが、彼の残した詩(魂)が代わりに、海を越えて、千数百年経ってもなお、日本人的な心として我々の内に息づいている。そして、その我々は、今も阿倍仲麻呂と同じ月を見ているのである。

Comments
  1. 333日 ago

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